第一次世界大戦後の世界(日本)

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これまで紹介した海外の状況を踏まえて、最後に日本の第一次世界大戦後の状況を見てみましょう。

大戦景気にわく日本

第一次世界大戦では日本は戦勝国でした。明治から大正にかけて近代化を推し進めた日本は、日清戦争、日露戦争、そして第一次世界大戦と、ここまで負けなしの状態です。

日露戦争には多額の戦費が使われましたが、それも第一次世界大戦でヨーロッパに大量の武器や食料を売ることで、経済回復を果たしました。第一次世界大戦の舞台はヨーロッパで、日本は戦争による被害をほとんど出すことなく、中国への圧力を強めてビールで有名な青島などのドイツ領を占領します。

大正ロマン

海外の文化をとり入れて、近代化を進める日本。当然、人々の生活様式も大きく変わります。

ヨーロッパの影響*を受けて、個性や感情、自由を重視する思潮が流行り、絵画や建築、ファッションにおいて、日本とヨーロッパのデザインが融合した文化があらわれます。このようなモダンな文化を「大正ロマン」と呼びます。明治期まで呉服屋だったところが次々に百貨店に姿をかえ、銀座にはデパート街が並ぶようになります。

※18~19世紀にヨーロッパで起こった「ロマン主義」の影響。合理主義や古典主義に反対し、自由な感性や想像力を重視した。

竹久夢二による表紙絵。(1926年4月号APL FOOL『婦人グラフ』)

また、政治に対しても自由を求める機運が高まり、政党内閣制や普通選挙法が制定され、文化面では義務教育の普及とともに識字率は97%に達し、多くの人々が学問や文学に触れるようになりました。

3人のパブロワと日本人の海外進出

日本にバレエを根付かせる大きな役割を果たしたのは同じパヴロワの姓を持つ3人の女性でした。

エリアナ・パヴロワ

1917年、ロシア革命が勃発します。1922年のソビエト連邦成立まで、バレエの本場ロシアは政治的に非常に混乱した状態になります。1919年、バレリーナのエリアナ・パヴロワとナデジダ・パヴロワ姉妹は、ロシア革命を逃れて日本に渡り、バレエの指導や上演を行いました。

アンナ・パヴロワ

また、ロシア革命の後、バレエ団を結成してアジアツアーを行っていた、アンナ・パブロワが1922年に来日して「瀕死の白鳥」を披露します。この公演は大変な反響を呼び、これを観た芥川龍之介も絶賛しています。ちなみに、祖父の留学前の踊りの先生である岩村和雄は、この来日公演時にアンナ・パブロワと共演した唯一の日本人です。

オリガ・サファイヤ(オリガ・パヴロワ)

1930年代に日本へ移住した彼女はレニングラード・バレエ学校(現在のワガノワ・バレエ・アカデミー)で正規のバレエ教育を受けており、1936年にデビューした日劇ダンシングチーム(NDT)の教師として、戦後活躍する多くの日本人バレエダンサーを育てました。

オリガ・パヴロワが本名を名乗らなかった理由は諸説あるけど、今でも芸名を使用するダンサーはいるので、「サファイヤ」の方が覚えてもらいやすかっただけかもしれない。

日本人舞踊家の海外進出

日本で西洋舞踊が学ぶことができた最初の場所といえば、1911年に国際的な文化施設として設立された帝国劇場の歌劇部でした。ここではイタリア人の舞踏家ジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーを招いて、西洋舞踊の指導をしていました。その中から、本格的に踊りを学ぶために、海外に進出する日本人も出てきました。

1926年、祖父は海外進出した初期メンバーのひとり、石井 漠の帰国リサイタルを見て舞踊家になることを志したそうです。

石井 漠(踊っているところの画像が欲しかった)

つまり、終戦後の1918年から1920年代前半は海外からバレエの来日公演があったり、逆に海外に進出する日本人ダンサーたちがいて、1920年代の後半になるとバレエだけでなく、ドイツのノイエタンツやアメリカのモダンダンスなどを学んだダンサーたちが帰国し、活動していたという状況です。

関東大震災と世界恐慌

大戦景気に沸く日本ですが、1924年には関東大震災が起き、都市の70%が焼失します。混乱した社会を背景に1925年、悪名高き治安維持法が制定され、言論の自由の取り締まりが強化されます。

さらに、1929年アメリカで起きた世界恐慌の波は日本にも訪れ、中小企業を中心に多くの企業が倒産。企業にお金を貸していた銀行も体力のない中小銀行から破綻し、大企業や大銀行による吸収合併が進みやがて財閥化していきます。

このような状況下で、日本は新たな資源と市場を大陸に求めます。1931年の満州事変をきっかけに国際的に孤立した日本は、財閥が植民地支配で得た資金を軍部に提供し、軍部が財閥に軍備の生産を依頼するという、相互依存の関係が生まれます。

軍拡が進んで、きな臭くなって来たね。

まとめ

日本における西洋舞踊の盛り上がりは、3人のパブロワの活躍でクラシックバレエにも注目が集まりましたが、踊り手の育成という点では、モダンダンスの方が先に進んだようです。そこには、クラシックバレエは身体の鍛錬に圧倒的に時間がかかるという点も関係しているようです。

ですから、当時の日本人ダンサーの海外での戦い方は、西洋舞踊に日本の伝統舞踊を取り入れた作品が多く見受けられます。

これまでの記事で紹介したようなグローバルな芸術活動の盛り上がりもあって、欧米に渡った日本人達もそのような表現で一定の評価を得たようです。

次回は、ノイエタンツの始まりについて、再びドイツからお送りします!

 


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