今日はドイツのお隣、フランスの第一次世界大戦後の状況をご紹介します。
戦後の傷が癒えないフランス。パリが芸術の中心地に
第一次世界大戦でフランスは戦勝国でした。ですが、ヨーロッパは第一次世界大戦の中心地。
フランスも戦費調達のため外国から多額の借金を背負い、大量の戦死者が出たため、労働力が不足していました。
目当てにしていたのはドイツからの賠償金です。ところが、賠償金の支払いが滞っていたのを理由に、重工業が盛んなルール地方を占領したことで、ドイツは猛反発して支払いを拒否。フランスはますます経済的な苦境に立たされることになります。
ルール地方。炭鉱があり、ドイツの重工業化を推し進めた。 西側がフランスと国境を接している。1923年から1924年までフランスが占領。 アメリカが介入してドイツの賠償額を減額、ドイツへの資金援助を進めたことは、 フランスにとっては打撃だった。
第一次世界大戦による大量の死者、政府の失策による不況、若者はそんな社会への反発を強めます。 これまでの価値観や常識を否定した新しい表現を模索する動きが巻き起こり、文化面や芸術面において、パリは世界の中心地となります。
当時フランスで活躍した芸術家をあげてみると、ピカソ、マティス、シャガール、ダリなどそうそうたるメンバー。マティス以外はスペインやロシアなど、海外から集まってきた芸術家です。パリの世界的な注目度がよく分かりますね。
ちなみに、藤田嗣治や岡本太郎もこの時期、フランスに滞在しています。
マティスに代表されるフォービズムやピカソに代表されるキュビズムの作品は戦前からありましたが、シュルレアリスムは第一次大戦後にはじまった活動です。シュルレアリスムは夢や無意識の世界を描くとことを目指しました。
人間の内面を描くという意味では、同じころドイツでさかんになった表現主義と似たような部分があります。一方で、表現主義は現実に直面して、それをどう感じたかをデフォルメ*して表現するのに対し、シュルレアリスムはむしろ現実を否定して、理性を超えた超現実的な世界を表現します。
*対象・素材の形態を意識的に変形すること。
※上記の作品の制作年代は必ずしも1918年〜1932年のものではありません。
映画監督ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリによって作られたシュルレアリスムの映画。
バレエ・リュス(1909-1929)
バレエ・リュスは、ロシア出身のプロデューサー、ディアギレフがパリを拠点に主宰したバレエ団です。
バレエ・リュスの活動は既存のバレエの概念を破壊し、モダンバレエの基礎を作るひとつの潮流を生み出します。
ディアギレフは、音楽や美術セット、衣装などを上にあげたような当時イケイケの芸術家たちとコラボレーションして舞台を作り上げ、総合芸術としてのバレエを作りました。
また、それまでのバレエはヨーロッパの伝統的なテーマに基づき、技術や物語に重点を置いていましたが、ディアギレフはさまざまな国の文化に影響を受けた作品を作り、既存の著名人ではなく、新しい振付家や美術家をどんどん招き入れたのです。
バレエ・リュスはディアギレフがなくなる1929年に一度解散しますが、1932年にバレエ・リュス・モンテカルロとして復活します。
イーゴリ・ストラビンスキー
『薔薇の精』
これまでのバレエになかった非常に民族的な衣装を身にまとっている
あくまで僕の主観ですが、バレエ・リュスをすごく分かりやすく言うと、既存のサーカスの概念を打ち壊した「シルク・ド・ソレイユ」のバレエ版です。
僕の主観なので、もしこの記事を関係者の方が読んでいても怒らないでね💦
まとめ
この時期、ドイツとフランスの関係は戦後の賠償金をめぐり、最悪でした。
一方で、文化・芸術面ではどちらも発展しています。ドイツとの共通点は、作り手が感じる主観的な世界を表現する作品が多いことです。またバレエ・リュスのように既存の価値観を否定するような活動が盛り上がっていたこともあげられるのではないでしょうか。
個人的にはフランスはより華やかで明るく、ドイツはより内向的で暗い印象があります。
次回はモダンダンスのもうひとつの潮流を生み出したアメリカについてです。
最後までお読みいただき、有難うございます!
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