僕の人生にはふたりの「のぶよし」がいます。
一人は言わずもがな、僕の父、執行伸宜です。この世に産まれ落ちてから今に至るまで、ずーっと影響を受け続けている人物です。
そしてもう一人がアラーキーこと荒木経惟氏です。素敵な縁と巡り合わせで、僕は何度か荒木さんとお会いしたことがあります。写真家アラーキーって有名ですよね?最近ではMee.too運動の流れでバッシングの対象となっていた人物ですが、ちゃんと彼の作品を見たことのある人って意外と少ないのではないでしょうか?
今日はそんな荒木経惟さんについて、僕なりの視点をご紹介します。
島尾敏雄「死の棘」
「私小説」というジャンルをご存知でしょうか?作者が自分の体験を題材に、実人生を書いた小説のことを「私小説」と呼びます。
戦後を代表する私小説に島尾敏雄(著)「死の棘」があります。あらすじを以下にまとめます。
戦中、特攻隊になり出撃の直前で終戦を迎えた作者が、出撃する港のあった奄美大島で出会った巫女と結婚する。戦後の自暴自棄な生活の末、夫の不倫を糾弾・尋問し神経が狂ってしまった妻と向き合い、絆を取り戻そうとする中で、作者自身も自分が狂気に陥っているのか、本当におかしくなってしまったのか分からなくなる。
じつは僕自身が島尾敏雄さんの(より正確には妻のミホさんの)遠い親戚だったりする。
この小説の主人公(=作家)は、決っして品行方正な人物ではありません。しかし、そんな自分を作品にすることで、戦争が残した傷跡を生々しく写し出すことに成功しています。起きた出来事を客観的に叙述するルポルタージュとは違い、私小説はあくまで主観的に作家が妻への思いを描いています。
僕が荒木さんの写真を見て感じるのが、まさにこの私小説の感覚です。荒木さん自身もご自分のことを「私小説家」と呼び、撮る写真を「私写真」と呼ぶので、たぶん的外れではないと思います。
たとえば、荒木さんの代表作「センチメンタルな旅」と「センチメンタルな旅 -冬の旅-」は、妻の陽子さんとの新婚旅行の写真から、陽子さんが亡くなった後までをその作品に収められています。
妖艶な花々、緊縛ヌード、空景、食事、東京の街、飼い猫、様々な被写体から強烈なエロス(生/性)とタナトス(死)が漂う写真は、正直、人によっては思わず目を覆いたくなるであろうものもあります。
もしかしたらそれは人が「死」を目の当たりにした時の反応に似ているかもしれない。「死」は誰にでも訪れるけど、なるべく日常から切り離して、遠くに置いておきたい存在だよね。
そしてそういったモチーフを選択することは時に「露悪的」と、そしりを受けるかもしれません。ところが実際に写真を見てみると、決して下品ではありません。むしろ被写体と一定の距離感があり、被写体が放つ生々しさとそれを写しとる荒木さんの間には距離があり、その間に鑑賞者が「感じる」余白が生れます。「センチメンタルな旅 -冬の旅-」でも、陽子さんが亡くなった後の空が写し出されていて、僕はそこに寂しさや孤独を読み取ります。
ご本人にお会いした時の印象は、とにかく「粋(イキ)」な人物でした。気っ風が良くて、明るく、だけどどこか繊細な、いわゆる江戸っ子気質の人です。露悪的な人は人との距離感が近い人が多いですが、常に人とは一定の距離を置いている感じがしました。
一方で、作品に秘めるセンチメンタルさだったりロマンティックさはおくびにも出しません。僕はそういう人の作品から思わずまろび出てしまう、センチメンタルなものに惹かれます。
時は偉大な作家だ
僕のニックネームの元になったチャップリンの「ライムライト」もそんな作品です。
チャップリンは自身を放浪者にして、上流社会への皮肉と、人間ドラマが織り成すロマンティズムを絶妙なバランスで描いた完璧主義者です。
そんなチャップリンが「ライムライト」を作成した直後、彼は赤狩り*にあってアメリカを追放されます。かつては喜劇王の名を欲しいままにした彼ですが、「ライムライト」製作時には撮影スタジオの片隅で細々と作品を作らなければなりませんでした。
*第二次世界大戦後の冷戦期に、アメリカ合衆国を中心に行われた共産主義者や進歩的自由主義者を社会的に追放する運動
そんな「ライムライト」の内容は年老いた喜劇役者が若いバレリーナにステージのバトンを繋ぎ、舞台上で息を引き取るという内容です。ここに来てチャップリンの作品と彼の実人生の境界線は曖昧になり、作品を観ているのか、彼の実人生をみているのか分からなくなります。
チャップリンの最盛期を知る映画評論家の淀川長治さんが「ライムライト」の取材に行った時、チャップリンの「時は偉大な作家だ」と言う台詞を聞いて涙したと言うエピソードがあるよ。
まとめ
先日のブログ「しかし、それだけはない」でも書きましたが、リアルとロマンを意識的に描くには、両者の間に一定の距離を保つ必要があります。
ところが作者が年齢を重ねて「死」が近づいて来ると、かつては距離を保ていていたこのバランスが崩れ、生と死の境界線が曖昧になってくるのではないでしょうか?晩年の作品にはそれまでの作品には見られなかったような「ほつれ」が生じることがあります。
そのほつれは作家が見る「夢」のようでもあり、そこにはその作家にとっての真実(リアル)が紛れ込んでいるかもしれません。
今年、荒木経惟氏は83歳、宮崎駿監督は82歳。ほぼ同い年の二人の作品、要チェックです!
最後までお読みいただき、有難うございます!
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