川端康成とバレエ『儚き美学』

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前回の記事では、川端康成が梅園龍子という美少女ダンサーとの出会いを通じて、西洋舞踊に興味をもった経緯をお伝えしました。

じつは、11月16日に音声配信で先にお話ししているのですが、今日は僕の祖父とも関わりのある、1930年代の日本におけるモダニズムの潮流と、川端康成の西洋舞踊に対する思いについて紹介していきたいと思います。

モダニズムの時代

さて、川端康成が浅草レビューに足繁く通っていた1930年代初頭、日本はモダニズムの大きな波に包まれていました。

この時期にドイツから帰国した僕の祖父・執行正俊が学んできたモダンダンス、「ノイエタンツ(新興舞踊)」も、新しい芸術として注目を集めます。

当初、川端康成もこのモダニズムの潮流に共感を示していました。彼は随筆の中で、「スポーツにもダンスにも、またレビューにもそのモダンの感覚と躍動に美を感じます」(「不心得な心得」(1930))と記しています。この感性は文学作品にも表れており、1929年に発表した小説『浅草紅団』では、浅草の歓楽街を舞台に、モダンガールたちの姿を描き出しています。

【推しの子】を見つけた後の変化

しかし、カジノ・フォーリーで見出した梅園龍子の将来を考えるようになると、レビューダンサーとしてではなく、本格的なアーティストとして成長してほしいという思いが強くなっていきます。

そのためのバレエ教育は、表現よりもまず、しっかりとした基礎テクニックを身につけることが重要だと考えました。

石井漠や高田せい子*による踊りを英才教育に基づく「芸術舞踊」と呼んでレビューの踊りとは分けて考え、習う年齢についても、彼女にはレビューを抜けて、16歳から20歳頃になるまでに、しっかりとしたバレエの英才教育を受けて欲しいと考えます。

*帝国歌劇部で西洋舞踊の教育を受けた、日本のバレエ界の第一人者

新興舞踊への懐疑

1934年、祖父と同門の江口隆哉・操子夫妻がドイツから帰国し、ノイエタンツ(新興舞踊)は一層の人気を博すようになります。

モダニズムには理解のあった川端ですが、この現象に対しては否定的な見方を示します。

その理由は、クラシック・バレエの基礎的なテクニックを身につけないまま、新しい表現のみを追い求める傾向への危惧でした。

実際、この当時の踊りは技術も構成も未発達でつまらないものが多く、知識人たちからは西洋舞踊は軽んじて見られていた。そんな中、川端康成も推しの龍子ちゃんのために、必死で西洋舞踊の良さを探ろうとしていたみたい。

執行正俊の《コッペリア》と川端康成の評価

そんな中、1934年に執行正俊が演出したクラシックバレエ《コッペリア》が上演され、川端康成に強い印象を与えます。「舞踊劇なるものに懐疑どころかほとんど絶望していた自分は、この一幕によって起死回生の思いがあり、希望を持たせられた」と高く評価しています。

ロシア・バレエの、ドイツ流演出の、執行氏帰朝土産の、不足だらけの模写によりて、遥かに空想を馳せ、本場の舞台を思い描きたるなり。(中略)この執行正俊演出のコッペリアは私が見た限りでただ一つの誠の舞踊劇だった。その他はたいてい、なぜせりふを入れないか、なぜ歌を唄わないかわからぬようなものばかりであった。
-「舞踊劇コッペリア」(1934)より

祖父の記憶をたよりに上演された《コッペリア》の限界も指摘する一方で、本場の舞踊劇の面白さが垣間見える唯一の作品だったと評価しています。

祖父もまた、バレエの基礎がない新興舞踊家を称する人たちにより、舞踊会が多く催される状況に同じような問題意識を持っていました。

ドイツでクラシック・バレエとモダンダンスを学んだ経験があるからこそ、基礎技術の重要性を理解していたのです。

執行正俊(1930年代に撮影されたと思われる)

川端康成が描く西洋舞踊の理想

では、川端康成は、西洋舞踊にどのようなこと期待し、惹かれていたのでしょう。

そのヒントになるのが、彼の日本舞踊とバレエの対比的な捉え方です。日本舞踊は昔の一般大衆の生活を舞踊に写生したものであり、その中には俗っぽいところ老いること、死ぬことも表現されるが、一方、バレエは若さが輝く芸術であると位置づけていました。

女の美しさは舞踊に極まるばかりでなく、女は舞踊によってのみ、美を創造することができよう(中略)自然の、正しく、美しい姿や動きは、舞踊の訓練によって出なければ、最早人間には表すことができない。(中略)人間ほど醜いものはないと、憂鬱にとざされることがしばしばである。ただ舞踊が、辛うじてその醜さを救っていると云えようか。
-「わが舞姫の記」(1933)より

ぱっと読むとずいぶんと失礼な言いように感じるけど、これは推しの梅園龍子ちゃんの将来を真剣に考え、彼女に川端康成の希望や理想を見出した、ラブレターのようにも思える。

また、彼は自らを「舞踊批評家ではなく、わがままな見物人に過ぎない」と位置付ける一方で、「一般に西洋舞踊を見る予備知識の乏しい日本では見物の無理解を嘆く前に親切な啓蒙が必要である」(「舞踊界実際」(1934))と述べて、舞踊批評家が果たすべき役割についても言及しています。

まとめ

上野桜木町の自宅にて

以上から、川端康成の西洋舞踊に対するスタンスを以下のようにまとめました。

  • 日本舞踊は老いを、西洋舞踊は処女性を重んじる
  • 幼少期からの英才教育が必要
  • テクニックの習得が先、表現はあと
  • 西洋の伝統を知らずに新興舞踊に走るのは間違い
  • 舞踊批評家による観客の啓蒙が必要

推しの子である梅園龍子のことを考えていたと思うと、このあたりも飲み込みやすい。

現代の日本バレエ界では、時としてテクニックへの偏重が指摘されます。

しかし、川端康成の時代にまで遡ってみると、この「テクニック重視」の傾向には、西洋の伝統も文化も知らない日本人が、民族性を越えて基礎訓練を進めていくための必然の選択であったことが見えてきました。

また、彼は日本舞踊と対比しながら、バレエを若さの輝きを体現する芸術として捉えていました。

それは単なる年齢の問題ではなく、梅園龍子という少女への支援に見られるように、芸術における処女性、つまり純粋で未完成な可能性への強烈な関心通俗的な社会への絶望につながっていたのです。

この処女性へのまなざしは、『雪国』や『千羽鶴』に代表される彼の文学作品にも通底しています。儚く消えゆく美しさや、完成する前の純粋な状態への憧れは、川端文学における独特の抒情性と美意識の源泉でもあったのでしょう。


今回の記事作成にあたり、以下の資料を参照させていただきました。

日本舞踊のパイオニア」片岡 康子 (著)丸善出版

川端康成の舞踊観」髙橋佳子(著)日本女子体育大学リポジトリ

 


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