バレエ・リュスが「空前絶後のバレエ団」と呼ばれる理由のひとつは、このバレエ団に参加した振付家やダンサーたちが、バレエという舞踊芸術を地球規模で普及させたことにあります。
バレエ・リュスがこれほど世界中に影響を与えたのは、以下の理由が考えられます。
- 20世紀初頭における芸術・文化の中心地であったパリに拠点を置いていたこと
- 世界巡業を行ない、各国に人脈を築いていたこと
- 国際色豊かな才能がバレエ・リュスに集まっていたこと
- 第2次世界大戦を契機にパリに集まっていた芸術家たちが世界中に散らばっていったこと
今日はバレエ・リュスの拠点であり、かつてはバレエの中心地であったフランスにおける影響をご紹介します。
フランス・バレエの復活
バレエ・リュスの拠点があったパリは、19世紀半ばからバレエ文化が大衆化し、凋落したのは過去のブログでご紹介しましたが、その中心地点であるパリ・オペラ座を復活させたのが、バレエ・リュスの熱烈なファンであった実業家のジャック・ルーシェと、バレエ・リュスの最後の男性スター、セルジュ・リファールでした。
フランスで香水会社の社長だったルーシェはバレエ・リュスに刺激を受けて劇場経営に乗り出し、1914年パリ・オペラ座の総裁に就任します。そこでフォーキンやニジンスカに振付を依頼したり、ルビンシュテインをダンサーとして招いたりと、莫大な私財を当時ながらオペラ座の復興に務めます。
その彼がオペラ座のバレエマスターとして招いたのがセルジュ・リファールでした。
ウクライナのキエフ生まれのリファールは、その整った体型と美貌でバレエ・リュスの看板ダンサーとなり、数々の作品で主演を務め、プライベートではディアギレフの恋人として1929年にヴェネツィアで彼の最後を看取ります。
その年、ルーシェはベートーヴェンの音楽を使った《プロメテウスの創造物》の振付をバランシンに依頼し、主演ダンサーにリファールを招いたのですが、バランシンが肺炎に罹ったため、リファールが振付を完成させることになります。これをきっかけにルーシェの信頼を得たリファールは、パリ・オペラ座のバレエマスターに就きます。
リファールは自ら主役ダンサーとして踊りつつ、精力的にパリ・オペラ座の改革にも努め、多額の年会費を払えば会員がバックステージに入室できる悪癖を廃止し、ダンサーの教育に力を注ぎます。
また、長くレパートリーから外れていた《ジゼル》を復活上演させて人気を博し、その他、打楽器のみの音楽で演じる《イカール》(35)、シンフォニック・バレエ《白の組曲》(43)、コクトーが台本と美術を手掛けた《フェードル》(50)、元振付はフォーキンでシャガールが美術を担当した《ダフニスとクロエ》(58)など、バレエ・リュス仕込みの挑戦的な作品をいくつも発表します。
「エトワール」をパリ・オペラ座の最高職位にしたのもリファールだよ。
まとめ
パリ・オペラ座が長年抱えて赤字を補い1914年の就任から1944年の退任まで、30年にわたり経営面を支えたルーシェ、自ら主演ダンサーとして舞台に立ちながら、一流の芸術家を招いてクオリティーの高い作品を発表しつつ、長く定着していたパリ・オペラ座の悪癖を廃して内側から改革を行なったリファール。
両名の活躍により、フランスのバレエはかつての輝きを取り戻したのです。
次回は20世紀初頭まで独自のバレエ界が存在していなかったイギリスの様子をご紹介します。
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