今日は17世紀後半のフランスを見ていきます。17世紀後半は「太陽王」と呼ばれたルイ14世の治世です。
ルイ14世は「マダムのバレエ」で祝福された、ルイ13世とスペイン・ハプスブルク朝の王女アンヌ・ドートリッシュの間に生まれます。わずか4歳で即位し、76歳で亡くなるまで君臨した国王です。
制海権は先述のとおりスペインやオランダのものでしたが、フランスは当時最強の陸軍力を手にしていて、周辺諸国への侵略戦争を頻繁に行いました。
7歳からバレエを習いはじめ、31歳で踊り納めるまでにおよそ40の作品に出演し、その舞踊技術と演技力は宮廷内でも傑出していたと言われています。
ただ、あまり背は高くなかったので、ハイヒールとかつらを愛用していたみたい。
バレエ史において、ルイ14世は次の二つの貢献を果たしました。
- 宮廷での生活と政治制度の中枢にバレエを組み入れた
- バレエの体系化と理論化、それに伴うダンサーの職業化と専門化を果たした
絶対王政のプロパガンダ「夜のバレエ」
ルイ14世が幼い頃は宰相マザランが政治を取り仕切っており、マザランの政治に反発した貴族たちが「フロンドの乱」という反乱を起こし、そこにパリの民衆反乱や農民一揆が加わり、内戦状態に陥ります。
1653年、このフロンドの乱を鎮圧した国王軍の勝利を祝い、ルーブル宮殿の大広間で「夜のバレエ」が上演されました。フロンドの乱で傷ついた国王の権威を回復し、絶対王政の復活を高らかに宣言するために、全4部構成で43もの場面(アントレ)で構成されたこの公演の上演時間は、なんと12時間。
4部の合間には休憩もあったみたいだけど、12時間ってヤバイね。
国王が出てる時に寝てたら殺されそうだし。
「夜のバレエ」のストーリーをものすごくざっくりとまとめると、若い国王を太陽神アポロンに見立て、国王による国家の安寧と統一を象徴するものでした。
この大掛かりな宮廷バレエは絶対王政のプロパガンダとして、翌月までに8回も上演されています。
国王が出演するバレエが宮廷行事になることで、バレエ的な所作は王侯貴族の標準的な身体動作になり、バレエの下手な貴族は出世にも響いたそうです。
ルイ14世が踊り手として優れていたがゆえに、彼が踊り納めをした後も高いレベルのバレエが要求され、結果として、ダンサーが専門化するきっかけになったとも言える。
王立舞踊アカデミーの創設
ルイ14世のバレエ史へのもう一つの貢献は、ふたつの王立アカデミーを設立したことです。
- 王立舞踊アカデミー
- 王立音楽アカデミー
王立舞踊アカデミーはバレエの理論化を進め、舞踊芸術としてのスタンダードを確立し、正当なバレエ教育を普及するためのバレエ教師の養成機関になりました。
その代表的な人物が「すべてのバレエマスターの父」と呼ばれる、ピエール・ボーシャンです。
ボーシャンの最大の業績は「ダンス・デコール」と呼ばれるバレエにおけるポジション、ステップ、ムーブメントの体系化で、中でも第1から第5番まである足のポジションは、世界中のバレエダンサーが習う基本的な姿勢として現在まで続いています。
ボーシャンのもう一つの業績は振付を楽譜とともに標準的な記号で紙面に記録する方法「フイエ記譜法」を開発したことです。
15世紀にドメニコとグリエルモによって記述されたバレエは口述型式でしたが、フイエ記譜法によって言語に縛られず踊りを記録することができるようになりました。
そもそも、楽譜が今も使われている五線譜に落ち着いたのは17世紀に入ってから。
まとめ
今回はこれでおしまいです。
「すべてのバレエマスターの父」と呼ばれるピエール・ポーシャンもルイ14世がいなければ出てこなかったかと思うと、ルイ14世の果たした役割はとても大きかったと思います。
次回はルイ14世が設立したもう一つの研究機関、王立音楽アカデミーについて紹介します。
最後までお読みいただき、有難うございます!
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