最近はバレエから少し遠い話題が多かったので、今日はがっつり、バレエの話をしましょう。
1972年の《くるみ割り人形》、1973年は《コッペリア》と、全幕の上演が続いてきた執行バレエスクール発表会ですが、その翌年の発表会はどうだったのでしょうか。
今日は1974年の執行バレエスクール発表会に焦点を当てます。
さっそく、1974年がどんな時代だったかを見ていきましょう。
1974年のおもな出来事
まずは1974年がどんな時代だったかを知るために、この年に起きたおもな出来事を振り返ってみます。
- 国際エネルギー機関(IEA)の設立:第一次石油危機を受けて、国際エネルギー機関(IEA)が設立
- 日本の高度成長期の終焉:オイルショックの影響で戦後はじめて経済成長率がマイナスになる
- ニクソン大統領の辞任:ウォーターゲート事件の影響で退任し、ジェラルド・フォードが大統領に就任
- トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団設立:ニューヨークで男性だけのコメディ・バレエ団が誕生
- 日本バレエ協会の設立:優れたダンサーや振付家を発掘するための全国的な社団法人が設立
- ミハイル・バリシニコフがアメリカ亡命:同年アメリカン・バレエ・シアターにプリンシパルとして入団
- 国立フランス現代バレエ団の来日公演:NHKホールにて複数の作品を上演
- マーサ・グラハム舞踊団が来日:中野サンプラザで《夜の旅》を上演
1974年は、世界的に石油危機の影響が続き、日本では戦後初のマイナス成長を記録した経済的に厳しい年だった。バレエ界では、トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団が旗揚げされ、男性だけのコメディ・バレエという新ジャンルが誕生した。日本では社団法人(現:公益社団法人)日本バレエ協会が設立され、バレエの普及と発展に向けた新たな取り組みが始まったり、現代バレエの国際的な交流も活発だった。
1974年6月30日(日)厚生年金小ホール
それでは、1974年の発表会プログラムの挨拶文を掲載します。
「舞踊文化の向上」
昨年6月コッペリア上演以来再び皆さんにお会いする機会を得ました。今回は「ステージドアー」と「レ・シルフィード」を上演しますが、共に既に何回かやって来たもので片や「オンステージ」の名で発表して来た。舞踊の道は他の芸術と同様仲々険しいが、ようやく一般社会の理解の度も高くなり、従って各地方の舞踊文化も中央に劣らず高いもので其は最近の舞踊コンクールを見ても分かる。私事になるがこの秋に大分県社会教育芸術課の助成で県の洋舞踊協会による、二時間半の民話による創作バレエの演出と振付を頼まれた。文化庁始め都の助成公演、各地方の県の助成も盛んになって来た。亦今年度の文化庁派遣の舞踊海外研修員(一ヶ年)として、竹屋啓子が選ばれた事は舞踊界の為にも私にとっても嬉しいニュースである。私の門弟関係でも、東京はもとより各地方で其々活躍している姿を見るとうれしいものである。先達、フランス国立現代バレエ団が来日した。其れを見ても分かる様に世界はクラシックバレエから現代バレエへと進みつゝある。我々は技術を十分勉強する事は勿論大切だが、芸術家として常に新しい創作に向ふ事も大切である。
ー執行正俊
この年は《ステージドア》と《レ・シルフィード》という一幕ものの作品が小品集に加えて2つ上演されました。
《ステージドア》は「幕開けの足跡 -1986-」で紹介しましたが、以前は《オンステージ》というタイトルだった様です。《レ・シルフィード》はフォーキンがバレエ・リュスに参加する前に発表した作品で、複雑なあらすじはなく、バレエの優雅さを堪能できる作品です。
ちなみに、ロマンティックバレエの代表作《ラ・シルフィード》とは「シルフィード」という妖精が登場する以外、なんの関係もない。正直、ゴッチャにしていました。
また、挨拶文にある大分県で上演された民話による創作バレエとは、大分県芸術祭主催・県民バレエで「大分県芸術祭賞」を受賞した《朝日長者》という作品のことだと思われます。
詳しい内容は分かりませんが、信心深い貧しい村人が早朝、山の頂で神秘的な体験をし、一夜にして長者となり、村を豊かにしたという九州地方の古い伝承を舞台化した作品のようです。
また、挨拶文に紹介されている竹屋啓子さんはこの後ニューヨークに留学し、マーサ・グラハムのグラハムカンパニーのメンバーになります。帰国後は日本でダンスO1というカンパニーを作り、現在も精力的に活動されています。じつはこの方が僕のブログや音声配信でたびたび登場する、僕の高校時代の同級生であり、スタジオアルマの主催者でもある小泉憲央の師匠です。
まとめ
高度経済成長期の終わりを迎えた日本社会。その中で祖父は、舞踊文化への理解の深まりや地方への波及、公的支援の増加を肯定的に捉えています。
この年の挨拶文で僕が気になったは、現代バレエに対する祖父の思いです。ご存知の通り、祖父は戦前のドイツでマリー・ウィグマンの元、モダンバレエを学んできた人物です。
現在の「コンテンポラリーダンス」の元となった「ヌーベル・ダンス(新舞踊)」という概念が生まれる直前のこの時期は、アートの文脈ではモダンからポスト・モダンへの変遷期にあたります。挨拶文では「モダンダンス」ではなく「現代バレエ」と記されており、祖父はクラシックバレエが現代バレエへと進化していくことを洞察していたようです。
実際には現在、両者は相互に影響を与えつつ、独立したジャンルとして発展を続けています。
フランス国立現代バレエ団の来日に触れながら、世界の潮流を把握し、新しい創作への挑戦の重要性を説く祖父の姿勢は、技術の習得と創造性のバランスを重視する今日のバレエ教育にも通じる重要な指摘のようにも思えます。
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