幕開けの足跡 -1967- その3

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前回の記事では第22回芸術祭に「執行正俊バレエ団(N.Shigyo Ballet Troupe)」として参加したプログラムから祖父の挨拶文を紹介しました。

このプログラムには舞踊生活40年を迎えて芸術祭に参加した祖父に祝辞が寄せられているのですが、その中には日本の西洋舞踊史における、ある重要人物からの挨拶文がありました。

その重要人物とは、高田せい子さん(以下、敬称略)のことです。

高田せい子は戦前・戦後の日本の舞踊界で重要な役割を果たした人物で、祖父とも長く交流があった人物です。今日は1967年のプログラムに掲載されていたゲストの挨拶文から、高田せい子の文章と、祖父との関係についてご紹介したいと思います。

高田せい子さんの挨拶文

御祝詞
高田せい子
執行正俊氏が久かた振りに公演を持たれ、バレエ、バレエ・エスパニョル*、モダンダンスと幅広い演目のほかにバレエ「ファウスト」を以て芸術祭に参加されて、其の長い舞踊歴を飾られることは、まことに喜ばしく心からの御祝詞を申し上げます。
ベルリンから帰られた直後、わたくしが講師として通った東洋音楽学校の職員室でお会いして以来、舞踊を通しての長いご交誼を持ち、特に戦中、高尾の山麓に疎開してご家族とひとつ屋根の下に住み合っての半年に余る想い出は懐かしい極みであります。 あの頃、未だ幼くヨチヨチ歩きもおぼつかなかった伸宜さんが、男性舞踊手として立派に成長された姿は真に嬉しい限りで、光明ある前途を祝福いたします。
執行さんは東洋音楽学校ご出身だけに音楽に対する知識が豊かで、ときおりは自身で作曲もされるほどであり、その選び使用される曲が適切であり、作品の助長として立派に生かされることにいつも共感を覚えます。
幾年振りかにそれを期待し、じっくりと素材に取り組んで創作された作品を楽しみに、また、わが国古典バレエ界の重鎮・粕谷辰雄氏が作品提供と共に賛助出演され、執行氏門下で現在第一線に活躍中の加藤よう子さんをはじめ、多くのバレエ団員が出演されるこの舞台は、さぞ壮観のことと、その日をお待ちしております。

*バレエ・エスパニョル:スペイン舞踊の要素を取り入れたバレエのこと

高田せい子のプロフィール

高田 せい子(1895-1977)

まずは、高田せい子がどんな人物だったのかを紹介します。
高田せい子(1903-1977)は、日本の西洋舞踊史の初期を築いた先駆者です。彼女は日本ではじめて西洋舞踊を一般公開した帝国劇場の歌劇部で、イタリア人教師のG.V.ローシーから指導を受けました。1922年には夫の高田雅夫とともに渡米・渡欧を果たし、海外の舞踊技術や理論を学んでいます。
帰国後、1928年に発足した東京松竹楽劇部の初代洋舞講師を務め、さらに1958年からは石井漠の後を受けて全日本芸術舞踊協会(現在の現代舞踊協会)の会長を長く務めるなど、組織面でも日本の舞踊界の発展に貢献しています。

西洋の踊りがバレエやモダンなどに分岐する前、まだ『西洋舞踊』と呼ばれていた時代の初期メン。過去のブログで紹介した文豪・川端康成は高田せい子の舞踊団を「天才教育」をと呼び、高く評価していた。これは今で言う英才教育のことだと思う。とくに川端の「推しの子」だった梅園龍子ちゃんに、俗人的なレビューの世界から引き抜いて「天才教育」を受けさせたがっていた*みたい。

*高橋佳子 著「川端康成の舞踊観」

祖父との関わり

挨拶文からわかるように、高田せい子と祖父(執行正俊)は東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)でのつながりがありました。東洋音楽学校は祖父の母校であり、高田さんは講師として通っていたようです。

特に印象的なのは、過去記事でも紹介した戦中の疎開時代のエピソードです。空襲を免れるために家族を相模湖近くの農家に疎開させたところ、その農家の隣に高田せい子が住んでいたという奇跡的な巡り合わせ。

ちなみに、彼女の郷里は石川県金沢で、僕の妻の実家も同じ石川県金沢

また、高田せい子が初代講師を務めた松竹楽劇部から、女性だけのレビュー公演を行う団体として生まれたのが松竹歌劇団(通称:SKD)でした。戦前、祖父はこのSKDの演出・振付家として活躍していました。直接的な関わりがあったかどうかは分かりませんが、このような職業的なつながりも、二人の交流の基盤になっていたのかもしれません。

もしかしたら秋元康がAKB48の名前を付けた由来は、このSKDなんじゃないかと思って調べたけど、どうやら劇場のある秋葉原(=Akihabara)を縮めただけで、関係ないみたい。

また、文中には「伸宜さん」の名前も登場します。これは祖父の息子、つまり僕の父です。疎開時代は「ヨチヨチ歩きもおぼつかなかった」幼子だったものの、この公演では「男性舞踊手として立派に成長された姿」を見せていた、と書いてあるので、戦後も継続的に関係があったことが伺えます。

まとめ

高田せい子さんの挨拶文からは、戦前から戦後にかけての日本の舞踊界のつながりや、戦争という過酷な時代を生き延びた、舞踊家同士の人間関係の豊かさが浮かび上がってきます。

このプログラムには高田さんとの東洋音楽学校時代や疎開時代のエピソードから、バレエ、スペイン舞踊やモダンダンスといった多彩な演目をモダンバレエとしてまとめ上げようとしていた祖父の活動まで、バレエ史において貴重な情報が詰まっています。

今日の記事でご紹介できなかったのが、公演の演目です。高田さんの挨拶文にもありますが、この年に開催された第22回芸術祭の参加作品として上演した執行正俊振付作品『ファウスト』について、次の回で紹介したいと思います。

 


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