前回のブログを投稿した日に、たまたまKayano Ballet Blogさんも終戦の記事を書かれていたので、コメントさせていただいたところ、「こうやって(ブログに)書くと語り部っぽいですね。」という返信をいただきました。
今年は戦後78年を迎え、戦争を体験した方はあと10年もすれば大分減ってしまいます。仮に戦争を体験した当事者でなければ戦争を語れないのであれば、当事者たちの思いは彼らの寿命とともになくなってしまいます。
僕はこれまで、バレエの世界では完全な「他者」でした。バレエを踊ることもできないし、躍りとは全く異なる仕事をしてきた人間です。ですが、ブログや動画と言ったメディアを扱える人間として、かつての吟遊詩人や琵琶法師のように、過去の記憶を次世代に伝える語り部の役割は担えるのではないかと思った次第です。
前置きが長くなりましたが、本日は大戦末期から終戦を迎えた時の祖父の状況をご紹介します。
疎開先での奇跡的な出会い
横河電機工場に勤めることになった祖父は、激化する空襲に怯え、家族を相模湖近くの農家に疎開させます。
その農家の隣に偶然疎開されていたのが高田せい子*さんです。
高田せい子さんといえば、1911年新設されたばかりの帝国劇場において日本で初めて海外講師による西洋舞踊のレッスンを受けた日本の舞踊界における初期メン中の初期メンです。
この偶然をどう表現したら伝わりやすいかな?元AKB48の前田敦子と大島優子が、アイドル卒業後に引っ越しをして、偶然隣に住んでいたみたいな奇跡レベル。
疎開先での高田さんとのやりとりを一部ご紹介します。
空襲の影響で横河電機の工場は上諏訪に移り、祖父だけがそちらに疎開しますが、その半年後に終戦となり終戦の1ヶ月後に解雇されます。
疎開先から戻るとそこに住人が
終戦直後の祖父の様子を著作からご紹介します。
ショパンのスケルッツォ作品三一番ってこんな曲。ショパンが27歳の時に病弱だったショパンがインフルエンザになり、婚約者との婚約を破棄された後に作った曲。
終戦の翌年、疎開先から荻窪の家に戻ると、幸い家は残っていましたが、なんと先住者が二家族住んでいたのです。その一人はお医者さんで稽古場は診療所として使われていました。
これでは生徒に踊りを教えようにも教えられません。ただ、焼け野原になった東京で診療所は貴重な存在です。その二家族には引っ越しの猶予を与えて、祖父は一度郷里の福岡県大川市に帰り、病床の曽祖父を見舞いに行きます。
まとめ
その後祖父は全国の舞踊家たちにより1947年に設立された日本芸術舞踊家協会(現在の現代舞踊協会)の創立と共に入会し、精力的に演出・振付を行うようになります。
今日ご紹介した内容は、祖父の著作などから得た知識で、僕が祖父の生前に戦争時代の話を直接聞いた記憶はありません。おそらくですが、ショパンのスケルツォのくだりに書いてあるように、「お国の為に」と言われてフィリピンに行ったり工場で務めたりして、最後は栄養失調になって生死の堺を彷徨った挙句、昨日まで鬼畜米国を叫んでいた世間がコロッと価値観を変えてしまったことに無力感とやるせなさを感じていたのではないでしょうか。
これは僕の祖父に起きた出来事ですが、この時代に生きた一人一人に様々なドラマや想いがあったと思います。さらにその想いを僕が伝えることで、そこには当然僕の想いも含まれていくわけですが、それこそ語り部が琵琶を奏でながら情緒的に歴史を語る醍醐味だと思います。
最後までお読みいただき、有難うございます!
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