このブログを執筆しているのは2023年8月15日、終戦記念日になります。
皆さんがこの記事を読む頃には1日経ってしまっておりますが、戦後78年を迎えた今日は、執行バレエスクールの創始者である祖父が迎えた終戦についてご紹介しようと思います。
今回はドイツから帰国したあとの祖父の足取りと戦中の状況をご紹介します。
帰国後に沸き起こった「舞踊ブーム」
1932年に留学先のドイツから帰国した祖父は東京神田にあるビルで舞踊スタジオを開きます。
留学前の祖父の門下生であり、日本でバレエを広めた3人のパブロワの一人、エリアナ・パブロワの弟子になっていた東勇作*の協力や、ドイツ帰りの舞踊家という肩書きも手伝ってか、帰国後第1回目のリサイタルは反響がよく、門下生も増えて順調な滑り出しでした。
この舞踊スタジオに後の伴侶となる花月達子、つまり僕の祖母が入門してきたんだ。
ところが、徐々に戦時色が濃くなり、翌年には自身のスタジオと並行する形で松竹歌劇団制作部に入社して、作、演出、振付家兼、劇団生徒の先生となります。
この頃の日本では海外からの来日公演が相次ぎ、ヴィグマン学校同門の江口隆哉・宮操子らを中心に、ノイエ・タンツが先進的な舞踊として持てはやされる、「舞踊ブーム」が巻き起こっていました。
興味深いのは普通に考えたらこのブームの一丁目一番地に立っていそうな祖父ですが、その時の祖父の関心は、様々な国の民族舞踊、中でも日本土着の舞踊でした。
これはのちにノイエ・タンツの影響を受けた土方巽らが非常に土着的な暗黒舞踏を始めたことを考えると真っ当な流れにも思えますが、それよりも祖父の関心は西洋で学んだ踊りと自身のアイデンティティをどう結びつけるかと言うことだったのではないかと思います。
太平洋戦争が激化するにつれその傾向はますます強まり、上演内容は日本民族調のものが多くなり、日本各地へ実地調査に出かけるほど熱心でした。
戦争で外国の情報が入らなくなって、日本土着の舞踊に関心が向いたのか、それとも戦中日本の民族主義的な国威高揚ブームに乗っかって関心が向いたのか、そのあたりは分からない。
1935年、祖父は花月達子と結婚して、東京の荻窪に執行正俊バレエスクール・同バレエ団を設立します。これが現在の執行バレエスクールになります。
慰問部隊として戦地を巡った祖父
1943年松竹歌劇団は約60名からなる慰問団を組織して、戦闘の続くフィリピン全島を3ヶ月慰問します。祖父もまた、慰問兵としてこのフィリピンの慰問公演に参加します。
慰問兵として僕が真っ先に思い浮かべる有名な写真が朝鮮戦争下の戦地を訪れるマリリン・モンローです。
この写真の影響で僕は慰問兵はセクシーな有名人が男だらけの兵隊の真ん中でリサイタルをやるイメージでしたが、日本の場合は松竹歌劇団の女性劇団員がその役割を担っていたのかもしれません。
祖父のフィリピン巡業から帰る船上での思いを著作から引用します。
帰国してからはすべてが戦時色で興行も禁止され、軍や軍需工場への慰問で毎日を送る日々を過ごします。そして丁度この頃、私の父である長男、執行伸宜(しぎょうのぶよし)が生まれ、祖父は松竹をやめて横河電機工場に入社します。
当時、横河電機工場は武蔵野と三鷹に軍需工場を建てて航空機の計器などを生産していた。戦況が厳しくなると学生も芸術家も勤労動員され、激しい空襲にさらされることになったんだ。
まとめ
祖父は慰問団を要する松竹歌劇団に務めていたので徴兵を免れました。
一方で、自宅は東京荻窪にあり、戦況が悪化するにつれ毎日を空襲に怯えながら過ごさねばなりませんでした。僕も祖母が幼い父をおんぶして、お隣さんが爆弾で焼かれるのを見ながら避難した話を聞いた記憶があります。
次回は終戦を迎えた時の状況と、戦後の活動についてご紹介します。
最後までお読みいただき、有難うございます!
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