川端康成とバレエ【推しの子】

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お仕事がクッソ(失礼)忙しい時期を収穫期とするならば、仕事がひと段落した今の時期は、次の季節に向けて稲の種を苗床に植える育苗期(いくびょうき)でして、今まで後回しにしていたいろんな本や観たかった動画などを色々漁って、インプットしております。

そんな中、今どハマりしているのが「山田玲司のヤングサンデー」でして、中学時代、こんなに楽しく勉強ができていたらきっと引きこもっていただろうなと思える有料コンテンツです。

山田玲司先生の漫画「Bバージン」は大学時代に全巻持っていましたが、何よりこのチャンネルの最大の魅力は、文芸論、日本画、美術史、サブカル論など、それぞれバラバラに語られてきた話をクロスオーバーして紹介しているところです。

このチャンネルでレギュラーMCをされている奥野晴信さんが現代美術家の村上隆さんの「村上ラヂオ」で川端康成をラノベと結びつけて紹介されていて、これがまた最高に面白かったです。

この番組を見て、こんなことを思い出しました。

そういえば川端康成はじいちゃんの舞台について書評を書いてくれていたな。

みなさんは昭和の文豪、川端康成とバレエ(西洋舞踊)の関係、ご存知ですか?

前後半に分けて、今回は川端康成とバレエの関わり、そして次回は川端康成が観た祖父の公演についてご紹介しようと思います。

川端康成について

川端康成(1899-1972)

まず、川端康成についてざっくりとご紹介しましょう。

川端康成は日本を代表する小説家で、大江健三郎よりも早く、村上春樹よりも早く、1968年に日本人初のノーベル文学賞を獲った人物です。代表作は「雪国」「伊豆の踊子」「眠れる美女」など。自然や人間の儚さを美しく描き出すものが多く、独特の抒情性と静かな美意識が特徴です。

村上春樹はまだノーベル文学賞とっていないけど。

そんな彼が1930年から31年にかけて執筆した『浅草紅団』には、当時浅草の大衆文化であった浅草レビューに集う若者たちの心情が描かれています。この浅草レビューこそが、川端康成とバレエとの接点になりました。

浅草レビューとは

過去記事で、日本で初めて西洋舞踊を学ぶことができた場所として、1911年(明治44年)に設立した帝国劇場の帝国歌劇部を紹介しました。そこではバレエやオペラなど西洋の舞台芸術を学ぶことができました。

ところが、この帝国歌劇部は1916年(大正5年)に解散となり、所属ダンサーや研修生たちは浅草へと流れ、西洋オペラを大衆にわかりやすくアレンジした、浅草オペラと呼ばれる、芸術性より大衆生の高いエンターテイメントにして活動を続けます。

ほとんどの女性が和服を着用していた当時、オペラ女優の衣装はノースリーブや半袖で襟ぐりの開いたトップスで胸元や二の腕が露わになっていて、そのような衣装を纏っての踊りは、大衆の目を釘付けにしたんだ。

昭和初期になると浅草オペラはさらに多様化し、歌、ダンス、演劇、コントなどが組み合わさり、さらにアメリカやフランスのキャバレー文化の影響を受けた劇団が乱立し、総じて浅草レビューと称されるようになります。

そんな伝統文化と大衆文化、さらには西洋文化が組み合わさった浅草レビューに文学仲間たちと入り浸っていたのが、若き日の川端康成です。

では、表現形式が多様化した浅草レビューにおいて、川端康成がとくに西洋舞踊にのめりこんだのはなぜでしょう?

推しの子ができちゃったからです。

当時、浅草レビューの劇団で踊り子だった梅園龍子(うめぞのりゅうこ)ちゃん(16歳)に、川端康成は惚れてしまいます。
1931年当時、川端康成は32歳。文壇デビューもして、のちに何度も映画化される『伊豆の踊り子』という短編小説でヒットも飛ばした売れっ子作家です。

この少女をなんとか支援しようという思いから、浅草レビューで踊りを続けるても舞踊家として未来はないのではないか、芸術家として育てるには若い頃から英才教育を受ける必要があるのではないかと、考えはじめます。

梅園龍子(1915-1993)

この当時、川端康成は独身だったし、合法的な結婚可能年齢は15歳だからギリギリセーフ。ちなみに、梅園龍子が当時所属していた劇団は「日本の喜劇王」エノケンこと榎本健一が在籍していたカジノ・フォーリー。

まとめ

16歳も歳の離れた女の子に対する下心から西洋舞踊に興味を持った川端康成ですが、結局思いを告げることなく、支援することに終始して、この恋は終わりを迎えます。

梅園龍子はその後、川端康成が原作を書いた映画『乙女ごゝろ三人姉妹』で銀幕デビューを果たし、活躍の場を映画に移します。

川端の当時の思いが読み取れる文章に、以下のような記述があります。

「三年越しの小生の恋愛的な気持ちのまことにも哀れにも遠回しな現れに他ならないのでありま
しょうが,結局のところ彼女に恋人が出来るまでの間、妙なお守りをしてるだけに終わるらしく、小生も彼女をどうしようという気持ちは今のところないのであります。(中略)好きな少女に彼女も好み小生も好む舞踊の道にでも進ませたら、せめて小生の日々の気持ちが少しでも引き立つかと思った。」
-1931年12月16日に書かれた吉行エイスケ宛書簡より

現代の言葉を借りれば「推しの子」とでも呼ぶべき存在だった梅園龍子。今日のアイドルファンがその才能の開花を願うように、川端康成も彼女の芸術家としての成長を切望していました。もちろん、大正から昭和初期にかけての文豪と、現代のアイドルファン文化をまったく同一視することはできませんが、若い才能への応援という点では、意外にも普遍的な心情が垣間見えるのです。

今日はここまでにして、続きはまた今度。次回は川端康成が西洋舞踊を、そして当時流行していたモダンバレエをどのように評価していたのか。また、祖父の振り付けたバレエ《コッペリア》を見てどう感じたのかについてご紹介します。


今回の記事作成にあたり、以下の資料を参照させていただきました。

日本舞踊のパイオニア」片岡 康子 (著)丸善出版

川端康成の舞踊観」髙橋佳子(著)日本女子体育大学リポジトリ

 


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