僕には5つ上のいとこがいるのですが、その叔母の勧めもあって、小中学校は地元の公立学校に行かず、武蔵野東学園という、いとこと同じ私立の学校に通っていました。
その学校の独特の方針で、僕たち健常児は軽度の自閉症の児童たちと同じクラスで小中の9年間を一緒に過ごしました。
公立の小学校だと、特別な支援が必要な障害のある児童は「ひまわり学級」と呼ばれる、健常児とは別のクラスに入ることが多いんだけど、僕のいた学校は自閉症の児童教育に熱心な学校だったんだ。
そこでの学校生活のおかげで、僕は自閉症の子たちに対して、「可哀想」みたいな感情も、とくに「怖い」と言った距離感も感じることなく、育つことができました。
じゃあ全く差別するような意識がなかったのか、と言われれば、正直あったと思います。僕にとって、彼らはいつも手加減して遊ぶ対象だったし、彼らが出来る遊びに「あわせてあげる」対象でした。
そんな上から目線で遊ぶものだから、ゲームで僕が負ける時があると、必要以上に腹を立てたり、さっきまで仲良く遊んでいたのに、急にその子と遊ぶのをやめたりしていました。
彼らにしてみれば、せっかく仲良くなれたのに、一方的に僕が関係性を断ったわけです。
当時の僕を呼び出してゲンコツを喰らわしたいくらいですが、小5の僕の言い訳はこうです。
「だって、何考えてるかわからないんだもん。どうせボクが何言ったって分かんないでしょ。」
自閉症の僕が跳びはねる理由
そんな僕にとって、この本との出会いは衝撃的でした。
東田 直樹著「自閉症の僕が跳びはねる理由」
これは、中学生の自閉症の少年が、自分の気持ちを伝えるために筆談とパソコンのタイピングを学んで、自ら記述した本です。
この本のタイトルの通り、自閉症の子たちはたしかによく飛び跳ねていました。当時の僕にとっては、なぜ急に跳びはねるのか、分かりませんでした。
その理由について、この本では以下のように説明しています。
「なんだ、僕と変わらないじゃん。」
まとめ
彼らは僕と同じように感じ、同じように(たぶんもっと)傷ついていたのです。
ただ、その気持ちをうまく伝えることができなかっただけ。
誰だって、普通に生きていたら伝えられない何かを抱えて生きているのではないでしょうか?
とくに表現に携わる人は、伝えたくても伝えられない何かがあるから、踊ったり、演じたり、描いたり、作ったり、撮ったり、書いたりをしているのだと思います。
小学生の頃に気づくことができれば良かったのですが、時すでに遅し。すくなくとも自分の息子には、僕たちが跳びはねる理由を伝えないといけないと思っています。
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