今日は前回の記事で紹介しなかった、ハンヤ・ホルムとレニ・リーフェンシュタールについてご紹介したいと思います!
ハンヤ・ホルム
ハンヤ・ホルムはマリー・ウィグマンの片腕的存在で、アメリカで活躍したダンサー、振付家、教育者です。
1930年マリー・ウィグマンはハンヤ・ホルムを伴ってアメリカでツアーを行います。その時の反響は非常に大きく、翌年にはハンヤ・ホルムを校長に、ニューヨーク・ウィグマン学校を開設します。
ウィグマンやラバンの理論に彼女独自のテクニックを融合させ、映画や舞台などにも活動の幅を広げます。
みなさんも知っているハンヤ・ホルムの有名な作品といえばこれ。
オードリー・ヘプバーン主演のミュージカル「マイ・フェア・レディ」はハンヤ・ホルムによる振付です。
祖父も著書の中で、ドイツ留学時代にウィグマン学校で見たハンヤ・ホルムの教授法や創作法は非常に素晴らしいものだったと書いてあります。
レニ・リーフェンシュタール
踊りに関してはズブの素人である僕も、レニ・リーフェンシュタールの名前はよく知っています。
彼女は、ナチス政権時代のベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」や、ナチス党大会を記録した「意志の勝利」などでナチスのイメージを美化する*プロパガンダ映画を作成した映画監督なのです。
*特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為のこと
元はウィグマン門下の舞踊家だった彼女は、映画「青の光」に主演したことで一躍有名になり、女優として活躍します。やがてその活躍がアドルフ・ヒトラーの目にとまり、党の記録映画の制作を依頼されます。
ベルリンオリンピックを記録した「オリンピア」は、だれが勝ったのかはそっちのけで、ひたすら肉体が持つ美しさやダイナミズムを切り取った作品です。
彼女自身、オリンピアの制作目的は「美」の追及だったと発言しており、その視点はもとダンサーならではものなのかもしれません。
その一方で、どんなに技術が優れていても、伝えかた次第でアートは非常に危険なものになりうることも示唆しています。
祖父にとってレニ・リーフェンシュタールは姉弟子にあたり、敗戦後はヒットラーに殺されたと思っていたそうです。実際は、ナチ党関係者の粛清を目指す非ナチ化裁判で「ナチス同調者だが、戦争犯罪への責任はない」とされてアフリカ奥地への取材や史上最高齢のスキューバダイビストになり、水中の写真を撮影するなど、101歳で生涯を閉じるまで、精力的に活躍しました。
レニ・リーフェンシュタールに関してはこちらのドキュメンタリーで終戦後の彼女の生涯まで紹介されています。
「マイ・フェア・レディ」「レニ」はアマゾンプライムでも観られるよ。
まとめ
世界中で活況を見せていたノイエタンツはその後ナチスの台頭により「退廃芸術」の扱いを受けて勢いを失い、終戦後のドイツではその影響力を失ってしまいましたが、各国にその遺伝子が伝わっています。
祖父の著書からノイエタンツを紹介するシリーズもいよいよ終盤です。次回は第2次世界大戦後のノイエタンツの足取りについて紹介します。
最後までお読みいただき、有難うございます!
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