「芸術」と「芸術じゃないもの」の線引き

ライムライトの仕事部屋
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まさかこの本を2回に渡り紹介することになるとは思いもよりませんでした。

それは10月28日のブログで紹介した、会田誠の著書「性と芸術」です。

前回の記事はいささか過激な要素も含まれていましたし、バレエに関心のある方にとって距離感を感じる内容だったかもしれません。

親しい友人からも「話が分かる人に向けて書かないと、ひかれるだけで伝わらないよ」と忠告を受けまして、「それは本当にそうだな」と思うのですが、「もしかしたら一見関心のなさそうな人でも、興味を持つ人がいるかもしれない」という僕の楽天的な性格が災いして、今日もこのブログを書いています。

今回ご紹介するのは、現代美術家の会田誠さんが考える「芸術」と「芸術じゃないもの」の話で、これをバレエにあてはめて考えてみました。

バレエを「芸術」と呼ぶのに異を唱える人は少ないと思います。もとは15世紀のイタリア貴族の余興から始まったバレエ。いつからバレエは余興というエンターテイメントから芸術になったのでしょう?

「どっちとも言える」と言うありきたりな答えで思考停止せず、あえてこう言った問いを考えることでバレエの現在地を知るきっかけにできればと思います。

そもそも芸術ってジャンルを指す言葉なのか、作品を指す言葉なのか、行為を指す言葉なのか、ちょっと立ち止まって考えてみよう。

会田誠がみずからに課している芸術活動のルール

この本の中で、彼は「芸術」と「芸術じゃないもの」の線引きは近年ますます難しくなっていて、「美しいものが芸術」「感動させるものが芸術」と言った線引きはひいおじいさんの代で終わり、その領域を拡大し続ける現代芸術を簡潔に述べる能力はないと断りをいれています。

その上で、自身がおこなっている芸術活動に限定して、「芸術」を以下のように条件付けしています。

  • 「お笑い」なら「笑わせる」、「政治演説」なら「特定の政治的主張を広める」といった単線的な目標や実用性を作品に持たせない
  • この世にある様々な表現様式(絵画を含む)に対し、それと同一化せず、客観視できる距離を保ち、その様式が存在するそもそもの理由や意味を吟味しつつ、こちらの考えによるオリジナルな変質をそれらに加える
  • 芸術作品の制作は自分の趣味趣向を開陳する、アマチュアリズムの場ではなく、表現すべきものは自分を含む「我々」あるいは「他者」であるべき

このようなことを以下に要約しています。

これらの態度は要するに「批評的」と言われるかもしれません。自分が実感できる言葉で言えば、
「確固たる文化的基盤に立って安定/安心しないこと」
「様々な文化的基盤を等価に観察して、つねに疑いの気持ちを持ち続けること」
「そういう態度から来る自身の空虚さに耐え、その代償として手に入る、自由やフレキシブルさや実験精神という武器を手放さないこと」
などが、現代における芸術の条件だと思っています。
会田誠(著)「性と芸術」

なにを言っているのか、さっぱりよく分からない。

つまり、もし君がダンサーだったら、バレエってなんだろう?と疑うところから芸術活動をはじめようという話。

分化の進むバレエ

ここでバレエについて考えてみたいと思います。これまで僕の「バレエの歴史シリーズ」を一緒に読んできてくれた読者は、19世紀後半にマリウス・プティパがクラシック・バレエを完成したと言われるまで、バレエはどんどんその内容を変質させてきたことをご存知でしょう。

そして20世紀に入ってバレエ・リュスが登場し、バレエの枠組みはさらに拡大して世界中に散らばり、発展を続けてきました。バレエは時代にあわせて自ら変容する力を内包し、進化してきたのです。

その後生まれたのが、1970年代後半にフランスで起きた「ヌーベルダンス」に端を発し80-90年代に生まれた「コンテンポラリー・ダンス」の概念。

この概念の出現を外から眺めると、バレエが自らを変質させてきた要素はコンテンポラリーダンスにカテゴライズされ、一方でクラシック・バレエは変わらない、文字通り古典的(クラシック)な踊りになったように思えます。

実際はダンサーの身体操作やバレエ教室のレッスン内容も変化し、クラシック・バレエもより合理的、近代的に進化していることが分かりますが、僕のような一般のお客さんから見るとクラシック・バレエは古典的な枠組みが決まっていて、その枠組みを壊すような表現はコンテンポラリーダンスに属するといったイメージを持つ方がほとんどではないでしょうか?

そうなると「クラシック・バレエ」でありながら、その枠組自体を拡張するような作品はなかなか出てきづらい、もし出てきたとしてもコンテンポラリーダンスとしてカテゴライズされる可能性があり、クラシック・バレエの進化を阻害する要因になりかねません。

歌舞伎のように、いわゆる「お約束」を誰が演じるかを楽しみにしてる常連さんと、「お約束」を否定した表現を見にいきたい人の間には、ぽっかりと溝があるように思える。クラシックバレエもコンテも好きな人はもちろんいるけど、たいていはもともと踊りが好きな人かダンサーの人。まったく踊りに関心のない人が見たいものって、その間の溝にあるんじゃないかな?

まとめ

「性と芸術」を読んで、僕がバレエに対して抱いた疑問はこれです。

「バレエは、自ら変革する能力を今も持っているのか?」

技術に関してはこれまで以上の進化が期待できるでしょう。技術が進化することで表現も進化していくこともあるでしょう。では、現在発表されている日本の新作が「クラシック」になる可能性についてはどうでしょう?

ここであえて日本と限定したのは、クラシック・バレエの要素の中に西欧的な文化や歴史・宗教までもが内包されているからです。そのルールに従って作品を作るのか、ルール自体を拡張するのか、ここも考えどころです。

「クラシックになる」と言うのはその作品がその後、数十年、数百年に渡り、繰り返し上演されるということです。モーツァルトもベートーヴェンも、その時代のキレッキレの現代音楽です。しかし、その音楽が世界中で繰り返し上演されることで、「クラシック」の殿堂入りを果たしたわけですが、少なくともここ日本では、モーツァルトやベートーヴェンが作るような作品は皆、「コンテンポラリーダンス」とカテゴライズされてしまうのではないでしょうか?

僕はまだバレエの勉強をはじめたばかりなので、このあたりの事情に詳しい方がいらっしゃればどうかご教示ください。

最後に、今日紹介した内容はあくまで会田誠氏が自身の活動において「芸術とは何か」を位置づけたものをベースにしているので、これだけが絶対的な「芸術」と言う言葉の定義ではないことをおことわりしておきます。

 


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