20世紀の初頭まで、アングロ・サクソンの国イギリスとアメリカでは、バレエ公演は行われていたもののバレエ学校による教育は定着しておらず、独自のバレエ文化は育っていませんでした。
今日はバレエ・リュスのイギリスにおける影響についてご紹介していきます。
イギリス・バレエの誕生
イギリスのバレエ界の基礎を築いたのは、ニネット・ド・ヴァロワとマリー・ランベールというバレエ・リュスの元ダンサーです。
ド・ヴァロワはアイルランドに生まれ、チェケッティに師事した後バレエ・リュスに参加し、ニジンスカやバランシン振付の作品などに出演しました。
退団後1926年にロンドンにバレエ学校を作り、さらに31年にヴィック=ウェルズ・バレエ団を立ち上げて、のちにロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場を本拠地とするサドラーズ・ウェルズ・バレエ団に改称。これが現在の英国ロイヤル・バレエ団の起源となりました。
彼女の振付作品ではダンサーがチェスの駒を演じて愛と死の戦いを描いた《チェックメイト》(37)が代表作です。
マリー・ランベールはポーランドのワルシャワ生まれで、音楽教育法「リトミック」を開発したエミール・ジャック=ダルクローズに師事します。
バレエ・リュスには《春の祭典》の制作にあたってニジンスキーの助手として雇われ、その後ダンサーとしても出演します。
退団後の1920年、ロンドンにバレエ学校を作り、26年にはマリー・ランベール・ダンサーズというカンパニーを立ち上げて、これが後にランバート・ダンス・カンパニーとなりました。
また、意外なところで経済学者のケインズも、イギリスバレエ界創出に一役買っています。ケインズはバレエ・リュスのファンで、ロンドンはもちろん、パリ公演にも通うほどでした。
ケインズの奥さんはバレエ・リュスの《眠れる森の美女》ロンドン公演で主演していたダンサーだよ。
1930年、英国独自のバレエを創作することを目的に「カマルゴ協会」が設立されます。ケインズ夫妻は同協会の創設メンバーとなり、ケインズは会計担当になります。
カマルゴ協会はわずか3年しか活動しませんでしたが、ケインズはカマルゴ協会を通じてド・ヴァロワや英国バレエの確立者の一人であるフレデリック・アシュトンなどに新作を発表する機会を与え、ド・ヴァロワとランベール、それぞれのバレエ学校のダンサーに出演機会を与えたり、45年にはバレエをはじめ、美術、演劇、音楽、文学などの団体やプロジェクトに助成金を支給する公的機関「アーツカウンシル」の初代議長を務めるなどして、イギリスのバレエ史に名を残しています。
まとめ
国王が公共のために働く民間企業や機関に対してお墨付きを与えることを「ロイヤル・チャーター」と言いますが、ロイヤル・バレエ団もアーツカウンシルもロイヤル・チャーターを受けています。
ロイヤル・チャーターを受けた機関は公的な支援を受けつつ、独立した運営活動を行うことができます。このように、イギリスのバレエ文化は公的な手厚いサポートを受けながら、現在まで発展し、*世界3大バレエ団を擁する国として発展してきました。
*イギリスのロイヤル・バレエ団。フランスのパリ・オペラ座、ロシアのマリインスキー・バレエ
さて、次回は世界最大の経済大国に昇りつめた、アメリカにおけるバレエ・リュスの影響をご紹介します。
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